里山歩き


鹿島神宮界隈を歩く


2012.10.8歩く

コ ー ス  徒歩約1時間40分
JR鹿島神宮駅(4分)塚原卜伝像(10分)鹿島神宮楼門・本殿(3分)鹿園(3分)奥宮(3分)要石(7分)御手洗池(11分)楼門(18分)鹿島城址(14分)鎌足神社(2分)根本寺(25分)鹿島神宮駅

 鹿島臨海工業地帯、鹿島アントラーズで知られる鹿島は歴史の古いところである。その歴史の随一は鹿島神宮だろう。創建は紀元前660年までさかのぼる。祭神の武甕槌神は武神で武士の信仰が篤かった。辺境の地を守る防人もここに集合して無事を祈願して旅立ったという。鹿島立ちといわれる。広い鹿島の境内を歩き、これも古い歴史を持つ根本寺と鎌足神社を訪ねてみた。  



JR鹿島神宮駅
 鹿島神宮駅へは成田から佐原乗換で1時間5分ほど。
 成田へは上野から常磐線我孫子経由で1時間20分ほど。東京からだと総武線千葉経由でほぼ同じくらいかかる。

塚原卜伝像
 駅前ロータリーを出て、信号のある交差点の1本左(東)の道をゆるやかに上って行くと、こじんまりとした鹿詰公園があり、その一角に塚原卜伝の像が建っている。

 剣聖として知られる塚原卜伝は、戦国時代の延徳元年(1489)ここ鹿島で、鹿島神宮の神官卜部吉川左京覚賢の二男朝孝として生まれた。
 5・6歳の頃塚原城の塚原家の養子となり、16歳のときに元服して新右衛門高幹と名乗り、廻国修行に出る。
 永正15年(1518)に帰国後、新當流を生み出し、卜部の伝統を伝えるという意味で卜伝と号した。
 70歳の頃3度目の廻国修行に出て、自分が完成した、国に平和をもたらすという「一の太刀」の剣で、将軍足利義輝をはじめ、義昭、細川藤孝、北畠具教らを指導したという。元亀2年(1571)3月31日、83歳でこの世を去り、墓は近くの梅光寺跡にある。    

鹿島神宮への道・大町通り
 来た道をさらにゆるやかに上って行くと石畳のきれいな大町通りに出る。ここを左へ。
 両側に、旅館、食堂、みやげ物店などが軒を連ねる参道を進むと鹿島神宮の森に入って行く。

鹿島神宮楼門
 まず最初に目に付くのが立派な朱塗りの楼門。日本三大楼門といわれるのも頷ける。
 寛永11年(1634)初代水戸藩主徳川頼房が寄進したもの。緑の木立の中によく映えている。「鹿島神宮」の扁額は東郷平八郎の直筆によるもの。

参道
 楼門をくぐり、杉の大木が並ぶ参道を行く。
 鹿島神宮の歴史は古い。皇紀元年(紀元前660年)、神武天皇東征の折、神剣を下し、東征の下工作をしたのが武甕槌神で、天皇はこれを感謝して当地に武甕槌神を祀ったのが始まりとされている。
 武甕槌神は、勇猛な武神で武士の信仰も篤く、各時代を通じて武家からの庇護を受けている。藤原氏が奈良春日大社を創建するとき、ここ鹿島と香取の神を勧請している。
 社格も正一位官幣大社で、常陸国一の宮。

 辺境の防備に旅立つ防人たちもここに参拝し、歌を残している。
  霰降り 鹿島の神を 祈りつつ
    皇御軍士に 我は来にしを
   万葉集20−4370 大舎人千文

 東国(特に常陸)から集められた防人たちは、鹿島神宮に参集し、ここで祈願をして隊列を組んで出発したという。これを「鹿島立ち」という。

本殿拝殿
 参道を進むと右手に素木の入母屋造りの拝殿があり、次いで幣殿、石の間、本殿と続いている。本殿は極彩色漆塗りの三間社流れ造。元和5年(1619)に徳川二代将軍秀忠によって寄進されたものである。
 本殿が北向きに建てられているのは珍しいが、これは東北地方の国々に睨みを利かすためか。

鹿園
 本殿の先、奥参道を行くと左手に鹿園があり、数頭の鹿がいる。
 鹿島の地名の謂れとも言われている鹿で、奈良春日大社創建の折、鹿島の神武甕槌神を勧請したが、そのとき乗ってきたのが鹿。その後奈良では鹿が増え続けたが、本家鹿島では絶滅したという。そこで奈良から逆輸入したのが、今鹿園にいる鹿だという。

奥宮
 鹿園をさらに進むと右手に奥宮がある。
 徳川家康が関が原の合戦に勝利を収めたことにより、そのお礼に本殿として寄進したもの。その後、二代将軍秀忠が現在の本殿を造営したときに現在地に遷され奥宮となった。

要石
 奥宮の脇を南へ入ってしばらく行くと玉垣に囲まれた中に中央が少しくぼんだ丸い石がある。鹿島の神が座った御座石と伝えられている。
 この石には、地震を起こす原因となる大なまずを地中深く押さえ込む石との言い伝えがあり、「地震除けの要石」として今もお参りする人がある。  またこの石の底が深く、掘れば掘るほど大きくなり図り知れず、鹿島七不思議の一つとして数えられている。

御手洗池
 元に戻って奥宮の前の坂を下って行き、下りついたところに水中に鳥居の立つ池がある。御手洗池で、かつてはこちら側が鹿島神宮の表玄関。ここで禊をして坂道を上りお参りしたという。
 この池は大人が入っても子どもが入っても水面が胸の高さを越えないといわれており、これも鹿島七不思議の一つとされている。
 またここの湧水は「長命水」として愛飲されている。

 ここから来た道を戻る。

鹿島城跡
 楼門を出て大町通りを真直ぐ進み、鹿島高校北の交差点で県道18号線を渡りすぐ先を右に折れると左へ城山公園の入口がある。

 鹿島城は、鹿島政幹が平安末期に築いた城で、それ以降鹿島氏の居城となり約400年ほど続いた。その間改修や拡大を続け、いまの鹿島神宮の表参道である大町通り辺りまで鹿島城内であったという。天正19年(1591)佐竹氏の攻撃を受けて落城するが、徳川幕府が成立すると、佐竹氏は国替えになり、元の鹿島氏が再興した。
 現在本丸の跡地は、鹿島城山公園として整備され、市民の憩いの場となっている。  

鎌足神社
 元の城山公園入口まで下ってすぐ右に山裾に沿って行く。やがて住宅地の中を道なりにしばらく行くと、右手に石の鳥居と奥に小さな祠がある。これが鎌足神社。
 なぜここに鎌足神社と思うが、ここが大化の改新に功績のあった中臣(のち藤原)鎌足の生誕地と伝えられているところ。その功績により鎌足臨終に際し藤原の姓を賜り、朝廷の重要な地位を占める藤原氏の祖となる。
 実は鎌足の生誕地と伝えるところがもう一箇所ある。いまの奈良県橿原市で、藤原の姓もその地名に因んだものといわれているのだが。    

根本寺
 鎌足神社を出て15mほど戻り右に入るとすぐ先に根本寺がある。
 推古天皇の命により聖徳太子が創建したというから由緒あるお寺だ。一時衰退したが、源頼朝によって再興されたという。が、元治元年(1864)天狗党の争乱のときに建物は消失し、現在の本堂は昭和57年(1982)に再建されたものである。  

芭蕉の句碑
 貞享4年(1687)、江戸で親交のあった仏頂禅師を門人の河合曽良、宗波とともに訪ね月見をしている。堂前にはそのときの句碑が建てられている。

 月はやし 梢は雨を 待ちながら

 根本寺を出て左(南)に向うと国道51号線に出る。これを左へゆるやかに上って行く。右手に鹿島小学校を見てすぐの交差点を左に折れると鹿島神宮駅に戻ってくる。




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