里山歩き


平将門の本拠地岩井を訪ねて


2012.3.1歩く

コ ー ス  徒歩約1時間20分
岩井局前(15分)富士見の馬場跡(20分)国王神社(5分)島広山(3分)延命寺(2分)岩井の井戸跡(3分)一言神社(5分)九重の桜(27分)岩井局前

 平将門は、平氏一族間の紛争に始まり、関東各国の紛争にも介入、やがて新皇と称して関東一円を独立国にしようとしたが、藤原秀郷、平貞盛の軍に敗れ、その夢は消えた。
 常陸国、下総国を中心に将門伝説の地は数多く残るが、その中で、将門の本拠地となり、終焉の地となった現在の坂東市岩井には数々の遺跡や伝説の地が残る。それらを訪ねた。



仲町十字路
 スタートはここから始まる。ここに来るには東武野田線愛宕駅からバスで25分。岩井局前で下りるとすぐ北が十字路。1時間に1本の割である。
 関東鉄道・TX守谷駅からは35分だが、こちらは1日4本と少ない。

 ここを北に進むと左に交番がある。交番前の三叉路を右(結城岩井線)に折れ、県道を渡り次の信号で左(中里岩井線)に入る。すぐ先右手に富士見の馬場跡がある。

富士見の馬場跡
 平将門がここで馬の調教や訓練をしていたところで、馬市も開かれていたという。この地から富士山が見えたのでこの名がついたといわれている。
 ここから西方にある長須では馬牧があって、伊勢神宮に祭馬や祓馬が納められていた。
 今は碑のみがあるだけ。

 来た道を少し戻り、すぐに左に入る道を行くと、先ほど分かれた結城への道に出る。これを北上するとやがて左前方にこんもりとした森が見えてくる。国王神社の森だ。

国王神社
 将門は、天慶3年(940)藤原秀郷、平貞盛と激戦中に流れ矢に当たって戦死したと伝えているが、没後の天禄3年(972)に、その地に三女如蔵尼が父の供養のため草庵を建てたのが神社の始まりとされている。
 一間社流造茅葺本殿は文化14年(1817)に建てられたもので、県の文化財に指定されている。  

平将門像
 国王神社の祭神は、珍しく木造平将門像(県指定文化財)。如蔵尼の作と伝えられている。
 将門は新皇を名乗ったため、叛臣の汚名をきせられていた。このため一時祭神は大国主命とされていたが、地元民からは英雄として崇敬が厚く、今は将門が主祭神に戻っている。
 神像は神宝殿に安置されていて、その写真が拝殿に飾ってあった。

 神社を出てもとの道を県道まで戻り、信号を渡って進み、すぐ先で右の脇道に入ると岩井の営所があった島広山。

島広山
 承平5年(935)所領争いがもとで、将門は源護一族や伯父平国香、良兼らと戦う。 そのとき豊田郡鎌輪から軍を進めて、ここに石井の営所を設け本拠地とした。その後関東一円を制覇し、諸国の受領を制定し、王城を建設する協議を行った。その記文に「王城を下総国の亭南に建つべし。」とある。亭とは邸宅で、その地はここ石井の営所のことかといわれている。
 将門は、新皇を称したことから後に追われる身となった。今は石碑が残るのみ。

 

延命寺
 島広山から先に進むと先ほど分かれた道に出る。さらに東に行くとすぐ左に延命寺がある。
 延命寺は岩井営所の鬼門除けとして建てられたが、天慶3年(940)藤原秀郷、平貞盛らに攻められたときに焼失する。そのとき薬師如来像は隠し移され、のち現在地に祀られた。文安2年(1445)守谷城主相馬氏により再建されるが、再び火災にあい焼失。当時の建物で残っているのはこの山門だけ。  

薬師堂
 将門の守護仏である薬師如来を祀る。別名島の薬師として親しまれている。薬師堂は有慶上人によって再建されるも、またも焼失。現在の薬師堂は仮堂。
 延命寺の本尊は大日如来坐像で、県の重要文化財に指定されている。

 延命寺を出てもとの道を少し戻り、標識に従って南に向うと左手にわずかな木立があり、田圃に突き出た一角に石の碑がある。

石井の井戸
 伝説によると、将門が居館築造の地を求めて島広の野を巡るうちにのどが渇いて困っていると、「水」と一声聞えて老翁が立っていた。老翁は傍らの大石をさし上げて、力一杯台地に打ち込むと妙味の水がこんこんと湧き出したという。不思議に思っているうちに、翁の姿はいずこかに消えていたという。
 天慶3年の戦いで敗れた将門の首を洗った井戸とも伝えられている。今は平地に自然石の碑があるだけ。
 岩井の地名の発祥地かもしれない。

一言神社
 石井の井戸から少し進み右に入ったところに建つ神社。
 承平5年(935)9月15日の建立で、一言大明神と称していたが、明治維新の際一言神社と改称したと伝えている。先ほどの、一言「水」といって井戸を掘り当てた老翁を祀るという。

 神社を出て元の道に戻りさらに南に行くと道は二手に分かれる。案内標識に従って左に行くとすぐに九重の桜がある。

九重の桜
 九重とは、宮中とか皇居を表わす言葉。これは、中国の王城が門を九重に造る制があったためからと言われている。
 この桜は、京都御所の紫宸殿前の桜を株分けして、将門ゆかりの地に植えたと伝えられている。
 かつては10数株あったといい、白い花が咲いたときは、遠くから見ると白雲が棚引いてるようだったというから、花の時期は見事だったと思われる。  

 再びもとの道に戻り南へと進む。途中新しい民家が数軒有、それぞれの庭先は趣向を凝らしている。これは門塀にあった花鉢の飾り。風に足がゆらゆら揺れてとても可愛かった。
 ここから南へ農家と畑の中の道を行く。やがて歩道橋のある県道に出るので、ここを左へ行き、岩井高校の手前の交差点を右に折れると坂東市役所を経てスタートの仲町十字路に戻る。  




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