街歩き


将門公苑と長塚節の生家を訪ねる


2011.3.5歩く

コ ー ス  徒歩約3時間5分
関東鉄道石下駅(10分)石下中央公民館・長塚節銅像(5分)興正寺(10分)石下橋(15分)将門公苑(25分)石下民俗資料館(8分)長塚節歌碑(40分)長塚節生家(20分)下総国庁跡(32分)香取神社(10分)石下橋(10分)石下駅

 新皇を名乗り、関東に独立王国を築こうとした平将門が生まれたのが豊田郷で、ここを拠点として活躍した。そして、長塚節の代表作で、農民文学の傑作と言われる「土」の舞台となったのがここ鬼怒川のほとり。作者、長塚節が生まれたのが国生。早春の1日、将門ゆかりの地と長塚節の生家を訪ねた。




関東鉄道常総線石下駅
 上野から常磐線快速で40分で取手駅。ここからのんびりとジーゼルカーにゆられ水海道で乗り換えて50分で石下駅に着く。
 

石下中央商店街
 駅前からまっすぐ西に進む。二つ目の信号で右に折れ、石下中央商店街を北へ向う。土曜日のお昼近くというのにシャッターの降りている店が多く、ひっそりとしていた。駅の反対側に大きなショッピングセンターがあるからだろうか。
 しばらく行くと、中央商店街のアーチ型看板があり、その手前が中央公民館。入口に長塚節の旅姿の銅像がある。  
長塚節銅像
 長塚節は明治13年4月3日、茨城県岡田村(現常総市国生)に豪農の長男として生まれた。3歳の頃より百人一首を暗誦し、学齢前の5歳で小学校に入学、中学校(現水戸一校)も首席で通すなど秀才の誉れ高かったが、病弱のため4年で退学、療養を兼ねて各地を旅していた。
 20歳のとき正岡子規に入門、「馬酔木」の編集同人となったり、伊藤左千夫らと「アララギ」を創設するなど、歌作から小説へと活躍した。代表作「土」は、方言など会話が多く、読みづらいところもあるが、貧しい農民の生活と心の奥をそして土地の自然を細かく書いている。豪農の長男として生まれながら良くここまでと思ったが、これが夏目漱石をして、自分を初め誰にも書けないだろうと絶唱せしめたところだろう。節は、大正4年2月8日、旅先の福岡医大で37歳の短い生涯を閉じた。
興正寺
 公民館から少し先に進み、興正寺の看板に従って左に入る。
 山号を石毛山、院号を地蔵院といい、本尊は延命地蔵菩薩。明徳4年(1393年)、平田慈均禅師によって臨済宗のお寺として開かれたが、文明2年(1470年)に、能山聚芸禅師を迎え、曹洞宗に改められた。
 当初は七堂伽藍があったが、寛文5年(1665年)に落雷により焼失。その後鳳山春桐が当寺10世となって再建に努め、石毛城主太郎正家の援助もあって貞亨元年(1684年)に再興した。

境内
 山門(仁王門)を入ると瀟洒な中雀門を経て本堂へ。左に薬師堂、右手に鐘楼、その奥に枯山水の庭を配置し、禅宗のお寺らしくこじんまりとまとまっている。
 史跡として、鎮守府副将軍豊田四郎平政幹の墳碑、石毛城主石毛次郎政重、太郎正家父子の墓がある。

石下橋
 興正寺の墓地を通り抜けて鬼怒川の堤防に上がり、下流に向って10分ほどのんびり下ると石下橋。この橋老朽化しているため、すぐ横に新しく大きな橋の架橋工事が行われていた。  

将門公苑
 石下橋を渡り終え、100mほど進んで左に入る道を行く。右手に広場を見ながら道なりに右折して進むと行く手に将門公苑が見える。
 平安時代中期、下総国を本拠とする鎮守府将軍平良将がここに豊田館を構えていた。平将門は良将の第2子としてここで誕生する。ただし、生年は未詳。父の死後家督を継ぐが、叔伯父達との領地争いが絶えず、彼らを討ち果たしていったという。  

将門碑
 将門は、関東に独立した王国の建設を目指し、天慶2年(939年)11月20日に常陸の石岡を攻め、ついで12月11日に下野、15日に上野の国府を占拠して新皇と称した。弟らには国司に任命して関東の独立化を図ったが、翌天慶3年(940年)2月、藤原秀郷らによって討たれ夢は消えた。
 将門の伝承地は各地に多いが、将門の銅像はここだけにしかないとのこと。   
常総市民俗資料館
 将門公苑の前の道を西へ村落の中を行くと田んぼに出る。ここを右へ行くと石下橋を渡ってきた道に出るのでこれを左へ行く。500mほど行って標識に従って右折するとほどなく右手に常総市民俗資料館がある。
 ここには民俗資料4000点余りを収蔵展示しているというが、係員は常駐しておらず、見学希望の場合はあらかじめ予約するようにとの張り紙。来てからでは仕方がない。残念ながら見学は諦め先に進んだ。
 連絡先 0297ー42ー0169

長塚節歌碑
 資料館の前の道をしばらく進むと道は大きく左へカーブする。その角にニチワ石下工場がありその手前に小公園があって長塚節の歌碑がある。碑は、昭和和18年に、節の親友で書家の岡麓らによって建てられてもので、碑面には
 鬼怒川を夜ふけてわたす水棹の
    遠くきこえて秋たけにけり
と、「秋雑詠」8首のうちの1首が刻まれている。
 生涯旅を続けた節は、国生の渡しで、幾度となく鬼怒川を渡ったことだろう。  

石棺
 歌碑の先を左に進む。右手にキャノン化成を見て道なりに大きく右へカーブし、30分ほど行くと長塚節生家入り口の看板がある。
 道の反対角に石棺がある。平成7年県道拡幅工事中、近くにある桑原神社近くの地中より発掘されたものだが、石棺の中に遺物が全くなく、詳細は分からない。近くには縄文遺跡、北原東山の古墳群、国庁跡もあることから、それらに関連するものと思われ、この地に移築して保存されることになった。  

長塚節生家
 生家入口の立派な石標に従って10分ほど行くと右手に長塚節の生家がある。長屋門を潜ると茅葺の大きな母屋が防風林に囲まれてあり、母屋の南西隅に応接間が建て増しされ、節の旅の衣装や遺品が展示されており見学が出来る。建物全体が茨城県の指定文化財となっている。
 月曜から木曜までは案内人に案内してもらえるが、週末は現在東京に住んでおられるという縁者の方が戻っておられるとのことで、応接間だけの見学となる。

国庁跡
 長屋門を出て元来た道を戻り、石棺のある十字路をそのまま東に進む。広い台地上の農地が続く。この辺り一帯は北総地区では最初の開拓地で、「土」の舞台になっているところ。
 昌泰年間(898〜901)には鎮守府将軍平良将がこの地に進出して向石下に居を構え、この地に下総の国庁を置いて周辺の開拓を行った。その後将門が引き継ぎ、二代40年にわたってその機能を発揮したが、今は畑の片隅にそれを記す石碑が一つあるのみで、面影は何もない。

鬼怒川と筑波山
 畑中の道をさらに東に取る。鬼怒川に突き当たる手前で道は右に大きくカーブする。適当なところで堤防上に上がりしばらく川の流れと筑波山を眺めながら行く。このあたり高低差がないのと、川幅が広くなっているため水の流れはいたって穏やかで鏡のよう。「絹川」と言われていたのがうなづかれる。一旦荒れると文字通り鬼怒川となるのだが。

香取大明神
 しばらく堤防上の道を行き、途中から元の道に戻るとまもなく左手に香取大明神がある。  平良将が国生に国庁を置いたときに香取明神を総社として勧請したもの。将門出陣の折にはここで戦勝祈願をしたと言うが、将門戦死後祭祀は一時途絶える。その後、前九年の役後この地を支配した石下四郎平政幹の長子、石下太郎広幹によって再興されたという。祭神は、経津主命、平将門、豊田四郎政幹で、産業振興と武勇の守り神として知られている。  

庚申塔
 神社の前の道を南へ200mほど下ると、今朝方歩いた石下橋への道に出る。ここを左折して石下橋を渡り、庚申塔のある角をどちらにとっても石下駅は近い。  




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