里山歩き


宗吾霊堂から甚兵衛渡しへ


2009.01.11歩く

コ ー ス  徒歩3時間55分
京成宗吾参道駅(15分)宗吾霊堂(30分)麻賀多神社(10分)宗吾旧宅(45分)薬師寺(45分)甚兵衛公園(90分)JR成田線下総松崎駅

義民佐倉宗吾ゆかりの地を歩いた。佐倉宗吾については歌舞伎やいろんな物語に取り上げられあまりにも有名だが、詳しい事績については知らなかった。
はじめに宗吾について学び、義民ロードを古い神社やお寺を訪ねながら甚兵衛渡しへ。後半はのどかな田園の中の首都圏ふれあいの道を下総松崎まで歩く中味のあるコースだった。

   

京成宗吾参道駅
 スタートとなる宗吾参道駅には京成上野駅から特急で1時間5分。成田駅からだと7分。
 改札口を出て右へ、北口に下りホームに沿って少し進む。

義民ロード
 ホームの端で、右から踏み切りを渡ってくる車道に出ると左へゆるい坂道を登る。

 ところどころにベンチのある歩道を進むとT字路に突き当たるので、これを右に行くと宗吾霊堂の門が見えてくる。道は狭く、車が多いので十分注意しよう。

宗吾霊堂
 正しくは鳴鐘山東勝寺という真言宗豊山派のお寺。縁起によれば、桓武天皇の時代に、征夷大将軍坂上田村麻呂が房総を平定した時、戦没者供養のために建立したと伝えられている。  義民として知られる佐倉宗吾(本名、木内惣五郎)がこの場所で処刑されたため、その霊を祀るため約350年ほど前にこの場所に移って宗吾霊堂を建て現在に至っている。  したがって本尊は、本来真言宗では大日如来だが、ここでは佐倉宗吾を本尊としている。

宗吾ご一代記館
 佐倉宗吾の事績を等身大の人形66体13場面で再現している。
 佐倉宗吾は佐倉藩領公津村の名主。佐倉藩の過酷な税の取立てに困窮を極めた農民を救おうと何度も藩に訴えたが取り上げられず、最後の手段として将軍(4代家綱)に直訴。ようやく訴えは取り上げられ、苛政は改められたものの直訴は死罪。子供4人とともに処刑されたという。この話が、歌舞伎やいろんな物語として今に伝えられている。この間かなりの脚色もあり、記録もまちまち。生没年や、事績もはっきりしない。  

惣五郎親子の墓
 境内に入ってすぐ右手に惣五郎親子5人の墓がある。
 惣五郎親子は承応2年(1653年)にここ公津ヶ原刑場で処刑されたと伝える。お墓には今も線香の煙が絶えない。
 境内には、惣五郎の遺品や関係文書、当寺の寺宝等を展示した霊宝殿もある。

 宗吾霊堂を出て東側を通る道路を北へ進む。左に谷津田を見ながら緩やかな上り下りの道を行く。
 行く手に見える信号のある交差点を直進する。

 途中家々の角に護符が立てられてあった。晦日参りであろうか。晦日に近くの神社にお参りして護符をいただき、厄病除けに立てて置くというのを以前聞いたことがある。

 交差点からすぐで道は二手に分かれるので、そこを左へ坂を上がって行く。登り終えた辺りで左に入る道がある。麻賀多神社への近道で、左は神社の境内だ。

麻賀多神社
 立派な石の鳥居をくぐり、奥の石段を上がると本殿がある。  今から1800年ほど前の応神天皇の頃の創建と伝えられている。雅産霊神(五穀、安産子育ての神)を祀る。現在の本殿は元禄9年(1696年)に再建されたもの。毎年7月31日の大祭に奉納される神楽と共に成田市の文化財に指定されている。

ご神木の大杉
 神社の境内には、スギ、スダジイ、ヒノキ、ケヤキなどの巨木が林立しているが、特に本殿左奥には東日本一といわれる大杉がある。高さ40m、太さ8m、樹齢1300年と言われており、不老長寿祈願のご神木として崇拝されている。  

 麻賀多神社を出て右(北)へ行くと、すぐ先に宗吾旧宅への入口を示す看板がある。これに沿って右へ急な坂を下って行く。
 この間わずかな距離だが車の往来に注意したい。
 また麻賀多神社の前の道路を横切り、坂を少し下ったところに文明13年(1481年)千葉輔胤の開山による超林寺がある。

宗吾旧居
 文化3年(1806年)佐倉藩主から認められた惣五郎の子孫、木内家の住宅。惣五郎の位牌や古文書があり、16代目の子孫が守っている。
 惣五郎には6人の子がいて、幼い下の子4人は共に処刑されたが、長女と次女は他藩に嫁いでいたので、助かったと言われている。一説では娘ではなく、妹2人ともいう。
 後に下の娘が夫と死別し、当地に戻ってきて再婚して木内家を継いだといわれている。

 宗吾旧宅を出て左へ道なりに行く。すぐに分岐があり、甚兵衛渡しへの標識に従って田圃の中の道を行く。やがて小川に行き当たるので川の手前を左折し、川岸を行く。
 次の橋のところに地蔵があるのでこの橋を渡り、正面に筑波山を見ながら真直ぐ進む。途中甚兵衛渡しへの標識が左を指しているが、ここはそのまま進む。その先車道に出たところで右折し、車に注意しながら行く。  

 少し先で三叉路となり、ここにも地蔵が安置されている。ここを左へ。右の小山は浅間神社。急な石段を登ると仮社殿だろうか、小さな建物が一つだけポツンとある。
 この前を左へ行き、次の分岐を印東体育館への標識に従って右へ行くと体育館があり、その先に薬師寺の山門が見える。

薬師寺
 立派な山門(仁王門)を入り、正面の石段を登ると本堂がある。
 真言宗のお寺。創建は明らかではないが、鎌倉時代末期の応長元年(1311年)11月、下州印東庄八代郷船形薬師寺の銘のある梵鐘があり、今は宗吾霊堂の霊宝殿に保存展示されている。  元は麻賀多神社の別当寺であったが、明治の神仏分離令により独立したという。
 何でこんなところにと思われるほどの古いお寺だ。境内は少し荒れているが、雰囲気が良い。境内にあるシイの木は市指定の天然記念物。
薬師如来坐像
 本尊は木造薬師如来坐像で鎌倉時代のもの。同じく鎌倉時代の作といわれる仁王門の木造金剛力士立像とともに県の有形文化財に指定されている。
 なお、表から拝観できる写真の薬師如来は前立ちで、県の文化財になっている本尊はこの奥に安置されているとのこと。

   仁王門を出て右へ。薬師寺の子院のあったところを左に行き、道なりに進む。途中先に見送った義民ロードと合流し、村中の道を行くと左前方に甚兵衛公園の樹林が見えてくる。

甚兵衛渡跡
 甚兵衛渡のあったところ。
 将軍直訴の前に妻子に別れを告げようと帰ってきた惣五郎を、藩の取締りのため鎖で繋いであった渡し舟を、渡し守の甚兵衛は禁を破ってこれを鉈で切り、無事惣五郎を渡した。禁を犯せば甚兵衛も死罪。役人の手で殺されるよりはと、自ら印旛沼へ身を投げて命を絶ったという。
 現在水神の森と呼ばれる公園になっている。松林の中に甚兵衛を祀った小さな祠がある。この辺り干拓されて現在の印旛沼の岸は少し先になっている。 

コミュニティバス
 ここまでで疲れたらバスの利用も出来る。宗吾参道駅の一つ成田寄りの公津の杜駅まで運行されている。

マガモ?
 沼岸の手前の水路にマガモが数羽休んでいた。写真を撮ろうと静かにへっぴり腰で近付いていったが逃げる様子は無い。さらに近付いて良く良く見たらデコイであった。上手く騙された。それにしても良く出来ていた。いや、単に目が悪かっただけかもしれない。
 この格好、これを設置した人が見ていたら愉快だっただろうなあ。  

成田新高速鉄道線
 長閑な田園風景を切り裂くように高架の工事が行われていた。北総線の印旛日本医大駅と成田空港を結ぶ線で、来年完成予定だそうだ。開業後は日暮里と空港第2ビル間が36分で走り、今の51分より15分短縮されると言う。運賃も高価となるだろうなあ。  

首都圏ふれあいの道
 甚兵衛公園からは下総松崎駅まで田圃の中の首都圏ふれあいの道をひたすら歩く。左手は印旛沼だが、堤防が高く水面は見えない。時折飛ぶチュウヒや田圃に遊ぶタゲリなどの鳥を楽しみつつのんびりと歩いた。  

下総松崎駅
 ようやく駅に辿り着いたときは、暮れるに早い冬の日はすっかり西に傾いていた。
 いつに無く疲れた。そういえばスタートからゴールまで完全舗装だった。土の上を歩いていなかった。  

甚兵衛そば
 宗吾霊堂を出ると甚兵衛公園までは食事場所がない。少し早めになるが、門前のお蕎麦屋さんで腹拵えをしておくと良い。写真は甚兵衛渡しの舟を模った器に盛った甚兵衛そば。  



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