街歩き


新選組と一茶ゆかりの流山を歩く


2008.5.15歩く

コ ー ス  徒歩2時間10分
総武流山電鉄流山駅(10分)流山市立博物館(10分)矢河原の渡し跡(5分)呉服新川屋(1分)浅間神社(1分)常与寺(2分)近藤勇陣屋跡(20分)一茶双樹記念館(2分)光明院(50分)東福寺(10分)雷神社(15分)JR武蔵野線南流山駅

江戸川の水運に恵まれた流山は醸造業で栄えた。醸造業の秋元家5代三左衛門は本業の傍ら俳号を双樹と称し、俳句をたしなみ小林一茶との親交を深めた。そんな関係で一茶もたびたび流山を訪れ数多くの句を残している。また、流山は新選組の近藤勇が最後に陣を構えたところでもある。そんな一茶と新選組ゆかりの地を歩いた。

    

総武流山電鉄
 JR馬橋駅から流山まで全長5.7kmの短い鉄道。
 6編成ある車両にはそれぞれ愛称名がつけられていて、それにあったカラーで塗装されている。現役車両はすべて西武鉄道で走っていたもの。
 大正5年(1916年)開業以来92年の歴史があるが、平成5年の輸送人員610万人をピークに年々減少、特にTX開業により激減し、平成18年には350万人となっている。この先も頑張ってほしいものだ。

流山駅
 馬橋から11分で終点流山駅。今回のコースはここをスタートとした。

 駅前にはお惣菜屋さんがある程度。必要なものはあらかじめ用意しておきたい。  

流山街道
 駅前を真直ぐ進むとすぐに流山街道に出る。ここを右へ、流山1丁目の交差点をさらに200mほど行き、標識に従って右へ入ると流山市立博物館と図書館がある。  


六部尊
 博物館への入口にあった。明和4年(1767年)に建てられた六部廻国の石塔。
 六部廻国とは、日本廻国大乗妙典六十六部経聖のことで、法華経を66部書き写し、全国66州の霊場(一ノ宮又は国分寺が多かったようだが)に1部ずつ奉納した修行者あるいは経典のこと。江戸時代には経典ではなく納経札が納められたようだ。
 六十六部に身をやつした物乞いも多く、また行き倒れもあり、その場所には六分塚が作られたという。この六分尊は巡礼を終えた記念に建てられたものと考えられている。

流山市立博物館
 六部尊の横の坂道を上がると博物館。入口左側に図書館が併設されている。博物館には縄文時代からの埋蔵文化財を展示するほか、醸造用具、民具などを展示。流山の歴史、文化、産業、水運等々多角的に紹介している。立派な内容で入館無料なので、流山を歩く前にまずここで予備知識を得ておくと良い。

 2階に上がると最初に新選組コーナーがあり、流山における新選組の様子が良く分かる。新選組ファンは必見。

葛飾県印旛県史跡の碑
 幕末、流山は藤枝にあった田中藩の飛地があったところ。明治2年田中藩本多家の国替えに伴い、この場所にあった本多家下屋敷に葛飾県の県庁が置かれた。その後明治4年の廃藩置県で印旛県の県庁舎となった。その場所を示す碑が博物館の前に建てられている。

矢河原(やっから)の渡し跡
 流山1丁目の交差点まで戻り右へ、突き当たりの信号を右へ、次の路地を左に入ると江戸川の堤防に上がり、広々とした景色が広がる。この辺り矢河原の渡しのあったところで、昭和35年頃まで存続していたという。
 近藤勇が新政府軍に出頭し、江戸まで送られたときもここの渡しだったという。

   元の道を戻り、信号機のある三叉路を真直ぐ進むとすぐ右手に新川屋がある。

呉服新川屋
 この辺り江戸時代から水運業や醸造業で栄えたところ。呉服商新川屋も弘化3年(1846年)創業の老舗。この建物は明治23年(1846年)に建てられたもので、太い大黒柱、天井の梁、分厚い壁などがっしりとした土蔵造り。
 当時の建物が少なくなった今、当時の姿を伝える貴重な建物として平成16年に国登録有形文化財として、流山で唯一指定された。翌17年に文化財として保存修理工事が行われている。屋根の恵比寿、大黒の鬼瓦は見事なもの。  

浅間神社富士塚
 新川屋の少し先に郷社浅間神社があり、社殿の裏に富士塚が築かれている。  富士山は古くから信仰の対象として登山されてきたが、特に江戸時代には富士講による一般庶民の信仰登山が盛んとなった。また、富士山に行かれない人のために人工的に富士山をかたどって造り、ここを祈願所としたり遥拝所とする富士塚が各所に造られた。
 ここの富士塚は溶岩を積み上げたかなり大規模なもので、1合目からの石標も置かれている。    

常与寺
 浅間神社のすぐ先が常与寺。
 創建は鎌倉時代の嘉暦元年(1326年)で、日蓮宗のお寺。
 明治5年に学制が発布され、それまでの寺小屋などは一切廃止され、小学校が新設された。そして小学校の教員を養成する学校として、県令以下官員が給料の一部を拠出して印旛県官員共立学舎をここに開設した。境内にその碑がある。
近藤勇陣屋跡
 常与寺の先一つ目の辻を左に入ると土蔵が見えてくる。
 近藤勇の新選組は鳥羽伏見の戦いで敗れ、甲陽鎮撫隊として勝沼で西軍と戦うもここでも敗れ、再起を期して流山に入り、醸造業の長岡屋に本営を置いた。しかし西軍に砲列をもって囲まれるに及び、土方ら他の隊員と別れ、単身武器を差し出して出頭した。このとき近藤は大久保大和と名乗っていたが、江戸へ送られ途中近藤であることが露見し、板橋で斬首され、晒し首にされた。遺体は遺族の手で密かに引き取られ三鷹の龍源寺の近藤家の墓に埋葬され、遺髪は土方の手で持ち帰り会津若松の天寧寺に埋
葬された。
地元では、流山の町を戦禍から守るために自首して出たのだと語り伝えられている。

庚申塔
 陣屋跡から先の道を右折して南に向かうと道脇に立派な庚申塔がある。60日に1度回ってくる庚申の日に庚申待ちをしたところ。この日に眠ると身中に居る三尸虫が天帝にその人の罪を告げ命を短くするというので、寝ないでそれ防ぐためという。平安時代に中国から伝わり、江戸時代に盛んに行われた。

一茶双樹記念館
 庚申様からさらに進むと一茶双樹記念館がある。
 流山で代々醸造業を営む秋元家の5代目三左衛門は味醂の開発者として知られているが、家業の傍ら俳句もたしなみ、双樹と号していた。小林一茶とも深い親交があり、経済的にも援助していた。このため一茶も当地へ50回以上も訪ねている。流山市では秋元家を解体修理し、記念館として整備した。またこれが縁で一茶のふるさと長野県信濃町と姉妹都市を結んでいる。   

杜のアトリエ黎明
 記念館の向い側、こんもりした木立の庭園内にある。洋画家笹岡了一と同じく画家で歌人の妻秋元松子の実家の一角に建てられたアトリエ。死後市に寄贈され、杜のアトリエ黎明として整備され市民の創作活動に役立てられている。
 絵画、陶芸、手芸などの展示会が催されるほか、木漏れ日の中で喫茶もできる。

光明院
 杜のアトリエ黎明を出てすぐ先の左側に光明院がある。真言宗豊山派のお寺。元は赤城神社の別当祈願所だった。明治元年の神仏分離令により分かれたのだろう。
 長岡屋に本陣を置いた新選組は200名ほどで、近くの流山寺や当寺に分宿したという。

双樹一茶連句碑
 光明院は秋元家の菩提寺で、双樹の墓があり、境内には双樹と一茶の連句碑が建てられている。

 長月朔日
 豆引や 跡は月夜に任す也  双樹
 烟らぬ家も うそ寒くして    一茶

赤城神社
 光明院のすぐ南隣に流山の地名の由来となったといわれる赤城神社がある。昔洪水の折、上州赤城山の土が流れ着いてここに小山ができた。それで流山と言われるようになったという。
 神社では毎年10月に祭礼が行われるが、それに先立ち10日の宮薙の日に氏子たちによって300kgもある大注連縄が作られる。以前は祭礼の時だけ懸けられたようだが、今は1年を通じて懸けられている。

 光明院を出て南へ進み、県道28号線のガードをくぐり先の武蔵野線の手前を左折し、武蔵野線に沿って進むと流山街道。すぐ左にある流山8丁目の交差点を渡り先に進むと南流山駅入口の交差点。これを左に渡り右への道を入ると東福寺の石段が見える。

東福寺
 急な石段を上がると仁王門があり、境内に入る。平安時代の創建という真言宗のお寺。藤原秀郷(俵籐太)が、平将門の乱を治めるときに戦勝祈願をしたと伝えられている。本堂には文久3年(186
3年)に奉納されたという「俵籐太百足退治の図」(市指定文化財)の絵馬が掲げられている。

眼つぶしの鴨
 寺の東門の鴨居にある鴨の彫刻、左甚五郎の作と伝えられているが、これには一つの民話がある。この鴨、夜毎に田に降りて稲を荒らしまわっていたが、足に泥がついていたことから怪しまれ、眼に釘を打たれた。それ以来稲は荒らされなくなったという。  

雷神社
 東福寺の石段を降りて左へ、鰭ヶ崎小学校を右に見ながら道なりに進むと左に路地のような参道奥にこぢんまりとした雷神社がある。毎年1月に弓で的を射てその年の収穫を占う「オビシャ」(御歩射)という神事が行われる。田吾作踊りや七福神の舞なども奉納され賑わっている。
 ここから元の道を戻り最初の角を左に折れると県道280号に出る。これを右へ行くと先程の「駅入口」の交差点で、JR南流山駅はすぐだ。  


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