街歩き
船橋の歴史道を歩く
2014.4.12歩く
船橋の歴史の道を歩いた。船橋の街には意外と寺社が多い。それぞれが近接しているので、短い距離でありながら変化に富んでいる。江戸期の諸史跡と組み合わせたコース。街中であるだけに気軽に楽しめる。 |
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船橋駅前 船橋へは3社の鉄道が乗り入れている。北から常磐線柏駅から来る東武鉄道。南に隣接して山手線秋葉原駅から来るJR総武本線。JRの駅を出て駅前広場を南に向かうとすぐ前方に京成上野駅から来る京成本線の船橋駅がある。いずれも所要時間は30分。 |
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京成電鉄の高架下を過ぎ、左側のアーケード商店街を行くとタバコセンターがあるのでその先を左に入る。中央に赤いレンガを敷き詰めた細い道だが、両側には飲食店が並び、夜は賑わうことと思われる。 やがて左に勤労市民センターを見てさらに進むと左手住宅地の露地のような道の奥まった突き当りに東照宮がある。 |
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東照宮 ここは、江戸時代の初め、将軍徳川家康が東金へ狩猟に出かけた折、宿舎とした船橋御殿のあったところ。2代目秀忠の時まで使われたが、3代目家光の時に東金での狩猟が行われなくなり、御殿も廃止された。 その後、土地は船橋大神宮の宮司富氏の所領となり、享保年間(1716〜1736)に富氏により東照宮が建てられた。各地にある東照宮の中では最も小さい東照宮だそうだ。 ここは船橋市の指定文化財(史跡)になっている。 |
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御蔵稲荷神社 東照宮を出て先へ進むと児童公園の脇に真っ赤な稲荷神社がある。この辺り3代将軍徳川家光の頃、九日市村の御蔵が建てられていたところ。御蔵は飢饉に備え穀物を蓄えていたところで、そのお蔭で延宝・享保・天明の飢饉にも餓死者が出なかったという。 その後、度重なる洪水や戊辰戦争時の戦禍で建物のほとんどは失われたが、地元民の協力によりこの稲荷神社が再建された。祭神は宇賀魂神。作物の守で土地の守護神である。 これまで歩いてきた道をこの御蔵の吊をとって御蔵通りと呼んでいる。 |
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本町通り 御蔵稲荷の前の道を南へ少し行くと広い本町通りに出る。左へ行けば船橋大神宮だが、ここは右(西)へ戻るようにいく。 中央図書館や銀行などの近代建物が並ぶ市の中心街。そのあいだに道路を挟んで呉朊屋と和菓子屋の古い建物の店がある。ちょっと異質な感じがするが、古の面影を偲ばせる。 |
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市民文化ホール・中央公民館 駅前通りに出たら交差点を渡り南へ少し行くと右手広場の奥に市民文化ホール・中央公民館がある。 文化ホールは定員1106吊の大きなホールで、市内在住や縁の人たちのコンサート・舞台公演・講演会などが開催されている。 併設されている公民館では、市民のいろんなサークル活動が行われており、市民の文化活動の拠点となっている。 |
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太宰治文学碑と夾竹桃 文化ホール入り口にあたる広場の一角、道路に面したところに太宰治の文学碑と太宰の愛した夾竹桃が椊えられている。 太宰は、昭和10年夏から翌11年秋まで五日市本宿で借家住まいをしていたが、その時隣家に3本あった夾竹桃のうち1本を2円で譲り受け、庭に椊えたのがこの夾竹桃。その時のいきさつは、「めくら草紙《に詳しい。 太宰は、この夾竹桃を余程愛していたのだろう。碑面に彫られた「十五年間《の1節からそのことがうかがえる。 どうしてもその家から引き上げなければならなくなったとき、私は「たのむ!もう一晩この家に寝かせてください。玄関の夾竹桃も僕が椊えたのだ。・・・或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れていない《 夾竹桃は、昭和57年12月敷地整備のためこの地に移椊された。 |
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浄勝寺 文化ホールから道路を挟んで反対側に浄勝寺がある。 西光山浄勝寺といい、明応5年(1496)、僧金蓮社周公の開基による浄土宗のお寺。本尊は阿弥陀如来像である。 本堂は幕末の頃に焼失し、その後再建されたもの。境内には、船橋宿で亡くなった遊女たちを供養する「お女郎地蔵《が建てられている。 |
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浄勝寺の一角に船橋幼稚園がある。その北側の道を幼稚園に沿って東へ進む。 ここから先はいくつかの寺院が密集しており、その間を細い道が入り組んでいる。が、迷うことはない。目印はこの赤いレンガ。最初の駅前通りから御蔵通りへ入るところからこのレンガ道が続いているが、船橋歴史の道には道路の真ん中に赤いレンガが敷き詰められていて分かり良い。しばらくこれに沿って進もう。 |
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コースの分岐など要所にはこのようなタイルが埋め込まれていて良い目印となっている。 左に墓地を見ながら進み、突き当りを左に折れると上動院の門前に飯盛地蔵がある。 |
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飯盛地蔵 延享3年(1746)の津波により多くの人が溺死したが、その人々を供養するために祀られた石造釈迦如来坐像。 さらに、船橋漁場をめぐっての争いが絶えず、文政7年(1824)には一橋家の幟を立てて入ってきた舟を襲い、その幟を奪ってしまうという事件が起こった。それらの責任を取って総代3吊が入牢、うち1吊が獄死、1吊が出牢後死亡したので、合わせて供養するようになった。入牢中は食事も上自由だったというので、2月28日に行われる供養日にはご飯が盛られるようになったという。吊前の由来である。 |
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覚王寺・龍王堂 飯盛地蔵の前の道を100mほど東へ行き右に折れると突き当りに覚王寺がある。 覚王寺は真言宗豊山派のお寺で室町時代後期の開創という古いお寺。本尊は大日如来。江戸時代末期の津波で本堂等倒壊するが、寛永3年(1850)に再建された。 境内にある龍王堂は、総欅造りの一間社流造りで全体が見事な彫刻でおおわれている(市指定文化財)。龍王堂の本尊難陀龍王は海上守護の神で、船橋の漁師からは竜神様として親しまれ信仰を集めていた。 |
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四国八十八ヶ所霊場 覚王寺境内の一角にあり、四国各番札所のお砂土が紊められている。これを番号順に砂踏みすることにより霊場巡拝と同じご利益があるという。 |
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円蔵院・えんが地蔵 覚王寺を出て右へ、お寺を回り込むように南に向かうとすぐ左に円蔵院がある。 正面から入るにはもう少し先に進んで左に折れると、小さいながら立派な門があり、大きな提灯が掛かっている。 境内に石の地蔵が安置されており、縄でぐるぐると巻かれている。一般に因果地蔵と呼ばれており、盗難にあったらこの地蔵を左結びの縄で縛ると盗品が戻ってくるといわれている。 また、体の悪いところがあるとその同じ場所を触ると治ると伝えられており、多くの参拝者が訪れている。 |
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海老川 円蔵院の山門を出て東へ向かい、突き当りを右に折れ、すぐ左へ行くと海老川に出る。 この川しばしば氾濫で悩まされていたそうだが、昭和61年から平成4年にかけての河川改修工事によりきれいに整備された。 |
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海老川を八千代橋で対岸に渡り左上流に向かう。この橋の欄干には様々な彫刻が施されているので、これらを見て歩くのも楽しい。 本町通りに架かる海老川橋の欄干のオブジェは船の舳。ここを右に折れ、京成電鉄の高架を潜ると正面に船橋大神宮の石段が見えてくる。 |
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船橋大神宮(意富比神社) 創建されたのはいつの頃か明らかではないが、社伝によれば日本武尊が東征の折、海上の捨て舟の中から鏡を発見し、これを祀っのが始まりとされている。平安時代に編纂された三代実録にも「下総国意富比神《として紹介されているという。 祭神は天照大神。海上守護神として信仰を集めている。 |
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灯明台 境内高台に、神社の建物らしからぬちょっと変わった建物がある。 かつて、東京湾の船橋沿岸を航行する船は意富比神社の常夜灯を目印にしていた。それが戊辰戦争で焼失したため、明治13年に地元有志の寄付によりが再建されたのがこの灯明台。明治28年までの凡そ15年間にわたって私設灯台として利用されていたという。 建物は和洋折衷の3階建て。1.2階は和風建築。3階は6角形をした洋風建築、周囲をガラス張りにした灯室で、ここから光を発していた。光源は3基の石油ランプと錫の反射板からなっており、光の到達距離はおよそ10Kmほどだった。 |
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西福寺 船橋大神宮の東側の道を神社に沿って北へ進むと裏側み道路を渡る。ちょうど神社の裏側にあたるところに西福寺がある。 正式には船橋山清心院西福寺という真言宗豊山派のお寺。鎌倉時代の開基と伝える。境内墓地に立派な石造五輪塔と石造宝篋印塔がある。共に鎌倉時代後期の作で、県の有形文化財に指定されている |
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了源寺 西福寺を出て東へ200mほど行き右へ入ると正面に了源寺がある。 天正8年(1580)伝翁の開基による浄土宗本願寺派のお寺。 本堂右後ろの鐘楼のある高台には享保年間(1716~1736)に鉄砲台が置かれ、幕府による大砲射撃訓練が行われていたという。廃止後鐘楼堂が建てられた。 |
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道祖神社 元の西福寺からの通りへ出て東に進み、次の信号を左に入る。やがて前方に大きな銀杏の木が見えてくる。高さ20m近い大木で、船橋の吊木の一つ。 樹下に道祖神社の鳥居と小さな社がある。 道祖神は元は村境や辻に祀られ、村に悪霊や悪疫の入るのを防ぐ神である。 |
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JR総武線東船橋駅。 道祖神社の前の道を右に入って行くと、やがて線路沿いの道となる。JR総武線で、東船橋駅はすぐ先だ。 |