わが街我孫子を歩く


古利根と城跡を訪ねる


2008.10.31歩く

コ ー ス  徒歩2時間5分
JR成田線湖北駅(8分)天照神社(20分)正泉寺(15分)八幡神社(30分)法岩院(5分)古利根沼(5分)中峠城址(15分)順道塚(15分)龍泉寺(7分)湖北駅


   

JR成田線湖北駅
 スタートとなる湖北駅へは我孫子駅から14分。北口へ出ると駅前地区再開発中で、以前あった駅前の商店は取り壊され、更地になっていた。  駅前をすぐ左へ。突き当りを右へ道なりに進む。

トケイソウ
 民家の生垣に変わった花が咲いていた。時計草という。花の形を時計の文字盤に見立ててこの名が付けられた。原産地はブラジルで、つる性の多年草。

 さらに進み、突き当りを左に曲がると天照神社。

天照神社
 神社の由来によると、祭神は大日霊売命で、古くから下総の国中相馬七ヵ村の総鎮守として崇敬されてきたとある。草創は古く、景行天皇の頃と伝えるが、神話の時代のことなので、天皇の生没年ははっきりしない。
 因みに景行天皇の年齢は、日本書紀では107歳。古事記では137歳。その父第11代垂仁天皇は紀では140歳。記では153歳となっていて大きな開きがある。景行天皇の次子があの日本武尊。

二十一佛武蔵石板碑
 境内には伊勢神宮や出羽三山の参拝記念、富士講などの石碑が数多く並んでいる。少し離れて木の祠の中に二十一佛武蔵石板碑がある。
 板碑とは、死者の追善供養や自らの浄土往生を祈願して立てられたもので、平安時代に始まり、特に二十一佛、十三佛、庚申板碑などは室町時代に盛んに行われたという。
 この二十一板碑には天蓋の下に釈迦如来を、その下に如来、観音、菩薩等20の仏が刻まれている。
 また二十一佛板碑の例は少なく、我孫子がその東限とされている。作られたのは天正9年(1581年)11月で、信長の本能寺の変の前年に当たる。中世の貴重な宗教資料として、平成7年に我孫子市の指定文化財として指定された。

 天照神社を出て左へ。突き当りの広い通りを左折すると踏切がある。ここでJR成田線を渡り、右手にある近隣センターの先を右に入る。住宅地の中の広い道を行くと、左に湖北台西小学校、湖北台浄水場を見て、やがて7号公園の先に正泉寺の参道がある。

正泉寺
 長い参道を行くと正面に鐘楼付の山門があり、これを入ると左に本堂がある。
 正泉寺の山号は大龍山で、曹洞宗のお寺。創建は弘長3年(1263年)で、開基は北条時頼の娘桐姫(法性尼)と伝える。本尊は延命地蔵菩薩。
 山門を入る手前に「日本最初女人成仏血盆経出現道場」と彫られた石柱があった。ここは血盆経信仰の拠点で、「女人成仏血盆経出現第1道場」として知られているところ。かつて女性の出産や月経などの赤い血は穢れとして忌避され、女性は成仏できず、血の池地獄に堕ちて苦しむといわれていた。  
血盆経は、血の池地獄に堕ちた女人の救済を説いたもので、血盆経を授かることにより成仏できると信じられ、広く信仰を集めた。
 戦後は、女性を差別するものとして禁じられた。
 当寺にある「女性成仏血盆経出現図」「尼御寮法性尼生滅之図」「血盆地獄絵図」の三幅をはじめとする血盆協関係資料は、その信仰の実態を示す貴重な資料として、県の有形民俗文化財として指定されている。

法性尼の墓
 参道の左に古い五輪塔がある。正泉寺開基の法性尼の墓と伝えられている。

 元の道に戻り先に進んで次の角を右折すると成田線に突き当たる。ここを左折し次の踏み切りを渡り、さらに356号を横切ると正面に八幡神社の赤い鳥居が見える。

八幡神社
 正徳4年(1714年)に建立されたもので、誉田別命を祀る。境内に疱瘡神の石碑がある。あまり見かけないが、疱瘡神は疱瘡(天然痘)を擬神化したもので、疫病神の一種である。村に疱瘡が入るのを止めるために村の入口に置かれていたが、道路拡張などのために取り除かれ、ここに移されたものと思われる。

 すぐ隣に白泉寺がある。正泉寺の末寺で、曹洞宗のお寺。本尊に釈迦如来を安置する。相馬霊場の22番札所がある。  

八幡の井戸
 白泉寺の横の坂を下って行くと左の竹薮の中にある。湖北七つ井戸のひとつで、今もこんこんと水が湧き出している。共同井戸で飲料水や農業用水として利用されてきた。

日の出通り
 八幡の井戸から坂道を下りきると広々とした田圃が広がる。丘の裾を通る道があるのだが草薮となっていたのでここは真直ぐと進み日の出通りに出る。ここを右折する。車も多いが、歩道が分離されているので安全に歩ける。
 前方左に見える丘の辺りが中峠城跡。
 次の信号を右折し、二つ目の角を左に入ると法岩院がある。

法岩院
 天文11年(1542年)中峠城主河村出羽守勝融の開基により創立された曹洞宗のお寺。本尊は釈迦如来。現在の本堂は昭和54年に再建されたものという。境内はきれいに清められていた。河村出羽守の墓地もあり、相馬八十八ヶ所の札所もある。

 法岩院から元の道を日の出通りまで戻り、信号渡って進むとすぐ右へ中峠城址への道が分かれる。これを見て真直ぐ行くと古利根沼に出る。

古利根沼
 かつて利根川は大きく蛇行して流れていた。このため流域の住民はしばしば起こる水害に悩まされていた。この防止のため明治45年(1912年)流路変更工事が行われ、現在のような真直ぐな川になった。そして蛇行部分が残されて古利根沼となった。
 向こう側に見える小堀地区はかつては利根川の向こうにあったため取手市であるが、水路変更のため利根川のこちらに切り離されてしまった。

波除不動尊
 大きく蛇行していた利根川の流の先端がこのあたり(古利根沼)で、このため流のあたる部分の崖が出水の都度崩落して付近の住民は悩まされていたという。享保3年(1718年)ここに不動尊を安置したところ、その後いかなる出水にも崖の崩落は収まったと言い伝えられている。

中峠城址・自然観察の森
 はじめ土豪の芝原氏が築城し芝原城といっていたが、天正10年(1582年)に河村氏が入って中峠城に改名したとされている。城主の河村氏ははじめ相馬氏に属していたが、後北条氏に属するようになった。天正18年(1590年)の豊臣軍の小田原攻めで北条氏が滅びるとともに芝原城も陥落した。
 城址の半分は宅地になっているが、一部は自然観察の森として利用されている。自然観察の森や周辺部には土塁や空堀の跡が残されており、中世の城郭の様子が比較的分かりやすい。

追分
 芝原城址から民家の中の道を進むと古利根通りに出る。その角に古い石標がある。磨耗して字は読めないが、横に立てられた説明版によるとここは追分で、「東は布佐・木下、西は布施、、南は中峠村、北は足尾山(筑波山系)とある」とあった。布施は布施弁天か。すぐ北に足尾山神社があった。

 ここを左折して行くと右手前方の畑の中にこんもりとした塚があった。道順塚である。  
道順塚
 天正18年(1590年)、豊臣秀吉は小田原の北条氏直を討つべく30万の兵で小田原城を包囲した。4月に湯本早雲寺に本陣を備えて3ヶ月、遂に氏直は降伏した。石垣山の一夜城。小田原評定などで知られる。
 言い伝えによると、このとき北条方の芝原城も豊臣軍の別働隊(徳川の家臣浅野長政・内藤家長ら)によって滅ぼされ、城代の林伊賀守は従士32人とともに自刃したという。その場所がここという。道順は林伊賀守が剃髪して名乗っていたもの。寛文13年(1673年)に建てられた碑がある。  

龍泉寺
 元の道を戻り、追分の道標を右に見て真直ぐ行くと356号線に出る。ここを左へ行くと湖北駅入口を過ぎてすぐ左に龍泉寺がある。
 寺伝によると延暦年間(782〜806年)に弘法大師が手賀沼の畔に草庵を結んで波切不動尊を安置したのが始まりとされている。天文年間(1532〜1554年)に現在地に移された。真言宗のお寺。本堂と山門は昭和30年頃に上野寛永寺の子院凌雲院から移築されたもの。相馬霊場の76番札所。
 ここから少し戻り湖北駅入口の信号を左に入ると駅は近い。




ホーム トップ