わが街我孫子を歩く
古墳や文人の足跡を訪ねる
2009.9.7歩く
|
![]() |
JR我孫子駅北口に出て線路に沿った道を柏方向に進む。一旦坂を下って信号を渡り、坂を上がりさらに線路脇を進む。 右手は、以前日立精機の工場があったところだが、現在は高層マンションが建ち並んでいる。 |
![]() |
日立精機2号墳 道の行く手右側道路に面したところマンション群の一角にあり、古墳公園として整備されている。 昭和40年に東大考古学研究室が中心となって発掘調査が行われ、全長30m、高さ2.5mの横穴式石室を持つ前方後円墳と判明したが、内部は既に盗掘にあって副葬品などは出ず、周辺から出土した須恵器などから7世紀初めの築造と推定されている。 |
![]() |
JR常磐線 古墳を出てすぐ先の歩道橋で常磐線を渡る。 旧成田街道は左下から右上の通りに通じていたが、常磐線の開通により分断され、今は左の道を少し先に行き、我孫子駅の手前で右へ線路を潜っている。 |
![]() |
歩道橋を下りてすぐ右へ。左手にある第4小学校の前を左に回り込むように進む。 正面突き当りを左に折れ、一つ目の辻を右に行く。 |
![]() |
道が下りかけたところにある最初のT字路を左へ100mほどで右手に白山古墳公園がある。 先に見える森が根戸船戸緑地。 |
![]() |
根戸船戸2号古墳 白山地区の手賀沼を見下ろす台地上に点在する根戸船戸古墳群の一つ。周辺は古墳公園になっている。 はじめ見た時は円墳かと思ったが、前方後円墳の変形したものという。長さ約20m、幅10m、高さ1.5mのだるま型をしていて、他では例が無く手賀沼周辺だけに見られるもののようだ。築造は7世紀末で古墳時代最後のもの。 周辺からは須恵器や鉄器が発掘されている。(我孫子市史原始・古代・中世篇による) |
![]() |
根戸船戸緑地 先程のT字路まで戻り坂を下っていくと右手に船戸公園が現われる。周辺は住宅地だが、鬱蒼と木が茂り静かな雰囲気を保つ。中央に東屋があり、一休みするのに良い。 この森を通り抜け、反対側から出て二つ目の角を左に入ると、突き当たりに武者小路実篤邸跡がある。 |
![]() |
武者小路実篤邸跡 志賀直哉らと共に雑誌「白樺」を発行し、白樺派と呼ばれてた武者小路実篤が、志賀の勧めで先に手に入れていたこの志賀の土地に居を構え、大正5年12月から7年にかけて住んでいたところ。ここで志賀や柳らと交流を深めながら創作活動を行ない、「或る男」「日本武尊」等を発表する。 大正7年9月、かねてから温めていた理想の国造り「新しき村」の発会式をここで行い、宮崎県日向に旅立っていった。 |
![]() |
ハケの道 もと来た道に戻り、公園の手前を右へ下って行く。下りついたら左へ。左手の崖からは所々水が染み出している。右手は干拓地。大正の頃まではこのあたりまで沼だった。志賀直哉邸から舟で往来したという。 |
![]() |
しばらく進むと左前方に石段があるのでこれを登っていく。 登りきって二つ目の通りを右へ行く。この辺り一帯が嘉納治五郎後楽農園があったところだが、今は閑静な住宅地となっている。 空地の道路に面したところに案内板が立てられたのですぐそれと分かる。 |
![]() |
嘉納治五郎後楽農園跡 柔道の創始者であり、講道館初代館長だった嘉納治五郎が明治44年(1911年)にこの地に農園を開き、農作物を栽培し、出荷していたという。ここに理想の学園を作る計画もあったようだが、それは実現しなかった。 嘉納は昭和15年に開かれる予定であったオリンピックの東京誘致に成功したが、昭和13年にカイロで開かれた国際オリンピック委員会の帰途船上で逝去。その後農園も売却された。オリンピックは日中戦争の勃発のため開催を返上。その後中止となった。 |
![]() |
中勘助仮寓跡 台地上から再びハケの道に下り、先に進む。右手に手賀沼公園の駐車場がある向かいで、左奥まったところにある。 代表作「銀の匙」で知られる作家でもあり詩人でもある中勘助は、実家の父や兄妹との人間関係や不幸が重なり放浪していたが、大正9〜12年に我孫子に来て高島家に寄寓した。ここで瀧井孝作と交流を深め、随筆「沼のほとり」を発表する。 |
![]() |
手賀沼公園 中勘助仮寓跡を出て、少し先の信号を右に渡ると手賀沼公園。 我孫子市を代表する公園で、市内で2番目の広さというものの、その広さは4.6ha。左程広くは無いが、それを感じさせないのは広々とした芝生広場や、眼前に開ける手賀沼の開放的な景観のせいかもしれない。 園内には子供たちがのびのびと遊びまわれる芝生広場や遊戯具、ミニSL、ボート乗り場などがあり、水面ではここで生まれ育ったコブハクチョウや市の鳥オオバン等が人々の目を楽しませてくれる。 |
![]() |
我孫子市は昭和60年12月に、いかなる国のいかなる核兵器に対して、その根絶を求めて平和都市宣言を行なった。それを記念して公園の中央に、広島市の旧庁舎の側壁と敷石を譲り受けて「平和の記念碑」を建立した。 |
![]() |
生涯学習センター「アビスタ」 手賀沼公園の一角にある公民館と図書館の複合施設。図書館の他学習室、工芸工作室、窯室、調理室などの施設があり、市民の生涯学習の場として様々な講座などが開かれている。 |
![]() |
香取神社 手賀沼公園を出て信号を渡り、駅に向かう公園通りのゆるい坂を上がっていく。左手にある川魚料理の宇田川の前の辻を右へ200mほど行くと香取神社がある。 祭神は経津主命。享保年間(1716〜1735年)の創建と伝えられている。明治39年の神社合祀令により近在の12社が合祀された。 明治の初めにはここに小学校が設けられていた。その後この学校跡に小屋掛けをして毎年10月に青年会が旅役者を呼んで芝居興行をしていた様子が志賀直哉の「流行感冒」に登場する。 |
![]() |
我孫子駅・飯泉喜雄顕彰碑 元の公園通りに戻り先に進むと程無く我孫子駅。駅前にかわいいSLの形をした記念碑がある。 明治27年(1894年)常磐線開通の話が持ち上がると、当時の我孫子町長飯泉喜雄が逸早く誘致に乗り出し、私財を投じて土地を提供。これにより明治29年我孫子駅が開業し、今日の我孫子発展の礎となった。これを記念して市民の手でこの碑が建てられた。 常磐線経由の夜行列車青森行きがSLに牽かれて運行されていた頃は、ここでも駅弁が販売され、かつて弥生軒に勤めていた山下清のデザインによる包装紙が評判だったが、今は駅弁の販売はしていない。 |